小島清文 逝去


小島清文 (こじま・きよふみ)

大学卒業後海軍少尉として戦艦大和に乗艦、レイテ海戦後、1944年12月末26航空戦隊司令部(フィリピン、ルソン島)に赴任。10日後にアメリカ軍が上陸しルソン島内を転戦、山中を彷徨。1945年4月に投降。

○不戦「創刊号」より
【戦場から見た「国家」と「教育」】
 米国では先に述べたように、・・・。お互いのコンセンサスの中でその社会は動いている。しかし、いまなお日本の教育界や一般社会にあるものは、一つの型、一つの考え方に対する文句のない服従、という昔ながらの図式である。しかも驚いたことに、それが「民主教育」だと大手を振って歩いていることだ。


○不戦No.2「1988年4月号」より
【不戦と有事来援の意味するもの】
 ・・・。一体、何のために、誰のために、国民はそのような目に遭わなければならないのか。先の戦争のときもそうだったように、死の商人と結託した政治家や権力者のためか。兵隊を将棋の駒に仕立て上げた戦争ゲームで最新装備や戦術を現地で試して見たくてしょうがない軍の首脳たちのためか。


○不戦No.6「1988年8月号」より
【いま選択の秋―核の劫火に死ぬか、信義に生きるか―】
 日本は、あの時、心から平和国家として再出発することを願い、2度と武器を取らぬことを誓ったのである。そして、わが国は憲法前文に「平和を愛する・・・(途中略)・・・。しかし、新憲法制定も束の間に、朝鮮戦争を境にして、理想は理想だが、「いざという時」に自らを守ることは許されてよいのではないか、という正当防衛論が、戦場の経験も戦争の本当の苦しみも知らぬ元将軍や老政治家たちの間からすぐ出てきた。


○不戦No.9「1988年11月号」より
【『国のため』というけれど ―二つの国家と二つの国民―】
 先の大戦に従軍した私たちの多くは、その戦争目的を「祖国のために」「親兄弟を守るために」、と漠然と考えながら第一線に赴いた記憶がある。そしてその第一線で、武器もなく、食料もなく、援軍もなく、国から全く見捨てられ、今日死ぬか、明日死ぬか、といういよいよ最後の土壇場に追いつめられたとき、多くの兵士たちは「国のためにというが、それは一体どういうことなのか」と考え込んだものである。 (中略)  戦前の我国の軍隊には、国民を守らなければならないという規定はどこにもなかった。それどころか、「軍の主とするところは戦闘なり。故に百時皆戦闘をもって基準とすべし」(作戦要務令要領)と言い、当時の軍首脳は「軍備は個人の生命、財産等の安泰を唯一の目的となすにあらず、国防のためにはむしろこれを犠牲になすこと少なからず」とさえ言いきっている。


○不戦10号(1988年12月号)
戦争体験を子供たちに ―中学生諸君・・・これが戦争だ!―
(1988年、東京近郊の中学校で「私の戦争体験」と題して語り継いだあらましを記録)
 ・戦艦「大和」乗組から陸戦隊小隊長へ
 ・「生きて虜囚の恥ずかしめをうけず」とは?
 ・ナメクジ、かたつむり、青蛙、野鼠なども食べて
 ・幽霊は生きていた
 ・生命は人の最高の宝、平和は人類の願い
 ・質疑応答、子供たちの感想


○不戦33号(1990年12月号)
 地獄の戦線から帰還して