井出亀三郎
井出 亀三郎(いでかめさぶろう) 1926年(大正15年)長野県生まれ、東京都世田谷区
▲1944年(昭和19年)7月、日本の南進開拓者を目指し国立大東亜錬成員第3部(拓南塾) 卒業(18歳)。陸軍雇員。 北ボルネオ派遣第37軍司令部付きとなり、赴任途中同年9月、バシー海峡で米潜水艦の雷撃を受け乗艦轟沈海没、瑞穂丸に救助され、九死に一生を得てマニラ兵站に収容。同年10月、威第10234部隊に仮転属。11月比島派遣第14方面軍報道部転属、軍属として働く。
▲1945年(昭和20年)戦況の悪化に伴い臨時招集、軍属から陸軍2等兵として報道部に 配属。「軍内宣伝」と称する「宣伝隊」に組み込まれるが、米軍の攻勢でバギオ撤退。ヌエビスカヤ州バヨンボンへ。6月同地を撤退。アシン川流域に撤退。7月以降9月まで同地に駐留。
▲逃避行、マラリア、餓死寸前同年9月米軍に投降、武装解除。
▲カランバ仮収容所、ケソン市収容所、北サンフエルナンド収容所を経て1946年(昭和21年)12月復員。(名古屋港)陸軍二等兵。
▲ひとこと
『兵は凶なり』(孫子)は古今東西、真理であり、公理である。為政者はそれを知りながら脱亜入欧富国強兵政策で、『維新』で湧き起こった人民を強圧し、明治憲法、『教育勅語』で国民の諸権利を奪い去り日露戦争時にも反戦機運を鎮圧した。大正期のデモクラシー抑圧に「治安維持法」で、社会革新運動を弾圧し、満州事変を皮切りに、欧米の植民地競争に割り込んで中国に侵攻した。名目は「居留民保護」から「東洋平和」へ、更に「八紘一宇」で東洋の盟主から「鬼畜米英」に進め、挙げ句、未曾有の敗戦、一転して米国従属となった。
(この後、準備中)