猪熊得郎 (2016年9月21日逝去、享年88歳)


猪熊 得郎 (いのくまとくろう) 1928年(昭和3年)東京都日本橋生まれ、横須賀市 

▲1944年(昭和19年)年旧制中学3年のとき、15歳で陸軍特別幹部候補生を志願。水戸陸軍航空通信学校長岡教育隊に入隊。同年12月教育課程修了。

▲45年2月日立常陸教導飛行師団の水戸東飛行場に配属。2月16、17日、米海軍戦闘機群の攻撃を受け16歳で初めての戦闘体験、同期生11名戦死。

▲同年4月 第2航空軍に転属。第22対空無線隊(本隊旧満州新京)に配属。吉林省敦化飛行場で陽動通信の任務、のち新京の本隊勤務。ソ連軍の侵攻とともに公主嶺飛行場で戦闘配置、第13錬成飛行隊と協力。8月17日停戦命令を傍受、敗戦。

▲国際法を無視したソ連の捕虜となりシベリアに抑留。アムール州シワキ、沿海州クラスキノ、ワエントーラ、ウオロシロフ等の収容所で製材、伐採、貨車積載、道路工事、ソフオーズなどの労働に従事。1947年12月ナホトカより舞鶴港に上陸復員。陸軍伍長。

▲ひとこと

私は15歳で志願、シベリアから帰ってきたのは19歳。二つ上の兄は17歳で海軍予科練を志願。人間魚雷回天特攻隊白龍隊員として沖縄出撃途中戦死、18歳。

私たち当時の少年たちは家族の反対を押し切り少年兵を志願して戦場に赴き、たった一度のかけがえのない青春をあの戦争に捧げた。(15年戦争での少年兵は42万名)。

そしてその戦争が『大東亜戦争』の美名の下、他国を侵略し、他国の民族を支配し、抑圧する戦争であった。

若者を再び戦場に送り出してはならない。若者たちの青春が戦争のための青春でなく、平和のための美しく豊かな幸せのための青春であることを私は心から願っている。