最新更新日 2012/05/01

 2007年の秋、『懐かしの昭和30年代ドリル』という本を出しました。世相・流行、テレビドラマ、玩具・遊び、学校・文具、野球、格闘技、日本映画など24のジャンルに分け、クイズでその時代をふり返ってもらおうという内容です。映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の公開に合わせた企画でした。
 あの映画の中の時代は昭和33〜34年です。山崎貴監督および主演の堤真一、薬師丸ひろ子の3人は、昭和39年生まれだそうです。ぎりぎり30年代に生まれて、その記憶があるはずのない彼らが、みごとにあの時代を描き、演じました。そもそも、30年代の半ばを映画にしようという発想がどこから出てきたのか、最初は不思議でした。でも、たとえ実体験していなくても、あの時代がもつエネルギーとか、一生懸命に生きていた人たちの心とかを、彼らもなんらかの形で感じているのだろうと思います。昭和54年生まれのわが息子も、執筆中に机の上に積み上げていた資料を、興味深げにのぞいていましたから、世代をこえて訴えるなにかがあるのでしょう。


 われわれ団塊の世代にとって、30年代は忘れようとも忘れられない10年間です。小学校1年生から高校2年まで、すでに社会人になっている人たちもいましたから、人生で最も成長の著しいころと、日本の高度成長とがまさにシンクロしていました。身の回りのなにもかもが、30年と39年ではまったくちがいました。おしなべて国民の暮らしは豊かになり、日常生活はぐっと便利になりました。あのころ登場したもので、いまもなくてはならないもの。テレビ、電気釜、電気洗濯機、電気冷蔵庫、インスタントラーメン、マイカー…。数え上げればきりがありません。しかし、どうでしょう。すべてがよくなったかというと、そうでもないような気もします。

 私は記憶力がいいほうですから、この本は基本的には記憶だけで書きました。資料は確認に使う程度でした。ところが、執筆が終わったあと、なにかしらスッキリしないものが心に残ったのです。「あのころにあって、いまにないもの」への思いです。いまも必要であるはずなのに、なくなってしまっているもの、あるいは忘れられているものと言ったほうがいいでしょうか。映画「三丁目の夕日」では、同じような視点で“人の心”が描かれていましたが、ほかにもいろいろありそうです。
 折りしも、私の古巣の学習研究社から、小学生向けの書籍『くらべてみよう!昭和のくらし』(全5巻)への企画協力を依頼されました。おかげで、また思い出す機会ができました。何度かに分けて、ずっと若い世代の編集者やライターに、子どものころのことをお話ししましたが、けっこう興味をもってくれたようです。それが2008年秋のことでした。そこで、しばらくは昭和30年代を中心に、自分の育った時代のさまざまなことを改めて思い出しながらつづり、このサイトで発表していくことにしました。自分自身も、そこからなにかを学びとることができると確信しています。 
『懐かしの
昭和30年代ドリル』
  (世界文化社)
    667円+税


CONTENTS
01「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の時代
02世相・流行
03乗り物
04子ども番組
05外国ドラマ・西部劇
06テレビドラマ
07バラエティ・歌番組ほか
08コマーシャル
09ファッション
10生活・文化
11新商品
12玩具・遊び
13菓子・駄菓子屋・露店
14学校・文具
15野球
16格闘技
17事件・日本のできごと
18事件・世界のできごと
19マンガ
20日本映画
21外国映画
22日本のヒット曲
23外国のヒット曲
24東京オリンピック
 ……………………………
●なつか新聞1「昭和のヒーロー・長嶋茂雄」
●なつか新聞2「オリンピックがやってきた!」

ペットではなく、暮らしに役に立つ家畜を飼っていました。 本文へ 
 うちにはヨースケ(羊介)という名の羊がいて、毛糸をとっていました。ヤギも飼いました。もちろんニワトリも。家畜へのエサやりは子どもの仕事でした。
アメリカの中古の服を買い、仕立て直してもらっていました。 
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 戦後まもない一時期だったと思います。定期的にアメリカから送られてきた古着の市がありました。母親についてよく買いに行きました。仕立て直したシャツやジャケットは上等品でした。
菜種を収穫し、食用油に換えてもらっていました。 
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 春先、裏の畑の半分は菜の花で真っ黄色に染まりました。5月中旬ごろに収穫して種を取り、製油所に持っていくと、菜種油と取りかえてくれました。ゴマだって大麻だって(!)植えていましたよ。
家の庭に四季折々果物のなる木がありました。 
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 サクランボ、ユスラウメ、ウメ、キイチゴ、グミ、モモ、ビワ、イチジク、カキ、ザクロ。畑ではイチゴもとれました。果物屋さんで買うのはリンゴとミカンくらいでした。
おやつは自分で調達していました。 
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 家になる果物はもちろんおやつですが、農家の友達の家に行くと、トマトやキュウリ、ウリ、スイカなどをおなかいっぱい食べられました。そのほか、ムク、イヌマキ、アオギリなど、食べられる実のなる木がそこらじゅうにありました。
遊び道具は自分で作りました。 
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 ゴム銃(パチンコ)、えの実鉄砲、チャンバラ用の刀。遊びで使うものはなんでも自分で作りました。ポケットには常に肥後守(小刀)。エポック社から「野球盤」が発売されたのは昭和33年。買えないから夏休みに自分で作って宿題として提出。展示会の一番人気でした。
勉強と遊びの区別がつけられない子どもでした。 
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 遊ぶ場所がたくさんあったので、まあ、よく遊びました。遊び相手になる生き物もたくさんいました。いろんなイタズラもやりました。学校の勉強よりも、遊びの中で得た知識があとで生きてきました。それは大人になってから感じたことで、おかげで仕事と遊びの区別がつけられないオヤジになってしまいました。
地金を拾ってこづかいかせぎをしていました。 
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 ビンのふた、空きかん、古釘などの小物から、使い古した農機具や道ばたに落ちている車の部品など、鉄くずは地金屋さんが買い取ってくれました。10円、20円のこづかいになりました。10円あれば十分おやつが買えましたから。
水道やガスや電話がなくてもさほど不便とは思いませんでした。
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 10歳になるころまで、わが家では井戸水を手動ポンプでくみ出して使っていました。電気ポンプの自家水道が完成したのは小学校高学年のころ。上水道が引かれたのは、高校を卒業して東京に出てきたあとでした。プロパンガスが入ったのも10歳を過ぎてから。父親は小学校の校長をしていたのに、現役のころは家に電話がなく、やっと引かれたのは退職後のことでした。
昭和30年代にわが家に泥棒が入ったときの話 
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 小学校低学年のころですから昭和30年代の初め、わが家に泥棒が入りました。夜中に忍びこまれたのです。台所の米びつが空っぽになっていて、色づいた鈴なりのカキがすっかりなくなっていました。
ぼくが焼きイモの皮を食べなくなったわけ 
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 小さいころから、ぼくは焼きいもの皮が大好きでした。皮ごと食べるのではなく、むいて食べたあとに皮だけ食べるのです。母親はそれを「行儀のよくないこと」としていやがり、なんとかやめさせようと考えたのです。そしてある時を境に、ぼくは皮を食べるのをやめました。
母方の祖父はダ・ビンチのような人でした。
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 芸術家という意味ではありません。いろんな技術をもっていて、万能の天才に見えました。もともと学校の先生で、晩年は田舎の幼稚園の園長でしたが、大工・左官仕事が得意で、うちの風呂場や掘りごたつを作ってくれました。ニワトリをつぶす手さばきも見事でした。
忘れることのできない昭和33年という年。 
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 映画「ALWAYS・三丁目の夕日」で描かれた昭和33年は、ぼくにとっても激動の年でした。まず、小学校5年の春に転校。まったく新しい生活が始まりました。6月に祖母が亡くなり、生まれて初めて身内の葬式がありました。高校野球、そして新しい時代を迎えたプロ野球に熱狂したのもこの年です。
昭和37年、初めての“海外旅行”。パスポートを取って沖縄へ。
 中学2年の終わりに、まだアメリカの統治下にあった沖縄へ行く機会がありました。パスポートが必要で、お小遣いは10ドル。もちろん、1ドル360円の時代です。鹿児島から船でまる1日かかりました。
昭和30年代の「花の東京」の思い出
 高1のときの初上京、東京オリンピック直後の修学旅行。いろいろな思い出があります。川端康成との出会い、坂本九ちゃんのライブ、アメ横での買い物、後楽園球場でのプロ野球観戦などなど…。
昭和26年ごろ、3歳のときの写真です。よくスケーターに乗って遊んでいました。あったんですよ、このころから。この写真をとったときの記憶もわずかにあります。5歳くらいからは記憶がかなり鮮明です。
日当たりのいい縁側で4歳ごろにとった写真。薪や布団が干してあって、後方には破れ障子。これが昭和20年代後半の庶民の暮らし。

▲学習研究社から2009年2月に発売された「くらべてみよう! 昭和のくらし」(全5巻)の編集に協力しました。「家族」「学校・遊び」「生活」「社会」「流行」に分け、昭和を生きた多くの人々の証言や資料写真が載っています。
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