
| ◆推薦書から欠落している平泉の最大の価値 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
世界遺産が2つ増えること自体は歓迎すべきことで、とりわけ東日本大震災の被災地である岩手県にとっては、今後訪問客が増える見込みもあって、非常に明るい話題となりました。しかしながら、「平泉の文化遺産」の推薦書の内容とその評価について、私は大きな不満を抱いています。 そもそも、4年前に登録延期の断が下されたとき、「なぜ?」という思いがありました。当時の報道によると、委員会に出席した日本政府代表の近藤誠一ユネスコ大使は、「文化の違いで浄土思想の概念をうまく伝えられなかった」と説明し、筑波大学大学院人間総合科学研究科の日高健一郎教授(西洋建築史、世界遺産学)は、「平泉は『文化的景観』という形の申請です。建造物だけではインパクトが弱い場合、周辺も含めて申請するのが近年のトレンドなのですが、『文化的景観』なら通るだろうという発想が安易だったのでは」と、分析しています(「読売ウイークリー」より)。最近は審査が厳格化し、新規登録が抑えられる傾向にあるので、そのことも影響したと思われます。 もし今回も平泉が落選するようなことがあれば、声を大にして言わねばと思っていたのですが、正式登録にこぎ着けたことで、少しは気が済んだものの、まだ溜飲が下がるというところまではいきません。なぜならば、世界史上における平泉の最大の価値といえる部分が、推薦書から欠落しているからです。ぜひとも触れて欲しかったのは、中尊寺の存在が、15世紀以降、世界地図を塗り替える結果をもたらした「大航海時代」の一誘因となったということ。もちろん、それだけがきっかけではありませんが、ヴェネチアの商人マルコ・ポーロが東洋への長い旅を終えて帰国した後に戦争捕虜となり、獄中で口述した『東方見聞録』が、ヨーロッパの冒険者たちの好奇心をかき立て、新航路の発見、さらにはコロンブスの新大陸到達にもつながったのはまちがいのないことなのです。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ◆「ワクワク伝説」+中尊寺=「黄金のジパング」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『東方見聞録』が世に出たのは14世紀初頭のこと。その中に出てくる「黄金のジパング」は、当時の東アジアに流布していたうわさ話を、ポーロが誇張たっぷりに伝えたものです。そのうわさ話のもとになったと考えられるものが2つあります。1つは少し時代をさかのぼったころ、イスラム商人によって広められた「黄金の国ワクワク伝説」です。遣唐使が大量の砂金を持ち込んだことにより、大陸ではそのころから日本は金を産する島として認知されていました。そしてもう1つは、いうまでもなく平泉の中尊寺の存在です。 ただし、ここで忘れてならない重要なことがあります。それは、中尊寺の評判のもとが、今日までその姿をとどめる金色堂だけではないということです。 奥州藤原氏初代の清衡は、1105年から1128年まで、実に24年をかけて大伽藍を造営しました。場所は、前九年・後三年の役の戦場となったところで、戦争犠牲者の鎮魂のための事業でした。それは2代基衡、3代秀衡に引き継がれて、完成時には寺塔40余宇、禅坊300余宇あったといわれますが、清衡のときにほとんどはできていたようです。その規模もさることながら、「皆金色(かいこんじき)」、つまり建物も仏像もその他の調度類もすべて黄金色に輝き、この世の極楽を表現していたのです。1189年、源頼朝によって藤原氏が滅亡に追い込まれたとき、平泉の町は灰燼に帰しましたが、中尊寺は戦火から免れ、寺々を回った源頼朝は感銘を受けたと『吾妻鏡』には書かれています。 ところが、主を失った中尊寺はその後荒廃の一途を辿り、それから約150年後、南北朝時代の1337年に起こった大火災で諸堂が焼失して、藤原3代当時からの建物は金色堂だけになってしまいました。もし、多くの建物が創建当時のままに残っていたら、とうの昔に世界遺産の仲間入りを果たしていたことでしょう。それを考えると残念でなりません。しかし、最盛期の中尊寺の偉容は、情報としては生き続けていました。コロンブスが新大陸に到達したのは1492年で、藤原氏滅亡から303年後、金ピカの建物が金色堂だけになってから155年がたっていました。 ただ、大航海時代との関連でいえば、以上の説明だけでは不十分であると、私は考えます。なぜなら、スペインやポルトガルが大型船を造って大海に乗り出し始めるのは、『東方見聞録』が世に出てから約1世紀半も後のことで、その間に、もう1つ重要な出来事があるからです。足利3代将軍義満が京都北山に金閣を造営したのは1397年のこと。金ピカの建造物としては金色堂よりも大きい金閣のうわさは、おそらく日明貿易によって大陸に伝わり、シルクロードを通って1世紀前のポーロのころよりもスピーディーに、ヨーロッパ人の知るところとなったのではないかと思われます。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ◆平泉黄金文化の実態について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「この国王の一大宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ているのですぞ。我々ヨーロッパ人が家屋や教会堂の屋根を鉛板でふくように、この宮殿の屋根はすべて純金でふかれている。したがって、その値打ちはとても評価できるようなものではない。宮殿内にある数ある各部屋の床も、全部が指2本幅の厚さをもつ純金で敷きつめられている。このほか広間といわず窓といわず、いっさいがすべて黄金造りである」(愛宕松男訳より) もちろん、金色堂の柱や軒、扉その他は純金でできているわけではありません。おもな部分は木に漆を塗り、その上に金箔が貼られています。金箔の厚さは普通0.1ミクロン(1万分の1o)。金はその優れた展性により、極限まで延ばすことができるのです。1962(昭和37)年から6年かけて行われた解体修理の際には、新たに10数s分の金箔が使われました。これを『東方見聞録』に書かれている「指2本幅の厚さ」の純金の板に置き換えると、仮に厚さを1寸(約3p)、幅3寸(約9p)とした場合、長さはわずか20p程度にしかなりません。ちなみに、1986(昭和61)年から1年8カ月かけて行われた金閣の大修復のときには、通常の5倍の厚さの金箔に貼り替えられましたが、金の総量は約20sでした。 でも、だからといって平泉にあった黄金はたかがしれているということにはなりません。40以上もあったという寺塔のすべてが金箔で飾られていたのです。金色堂は藤原3代の遺体が安置されているので、最初から霊廟とするために建てられたのでしょう、1辺が約5.5mと小さいものです。ほかの建物の多くは、これよりもずっと大きかったにちがいありません。「皆金色」という言葉から、伽藍全体の景観を想像してみてください。ため息が出てきませんか。 ただし、世界遺産登録の対象となるのは、あくまで現存する文化財や自然です。人類の貴重な財産を後世に残すために保護するというのが趣旨ですから、すでにこの世から消滅してしまったものについてあれこれ言っても仕方のないことです。それでも、現存する金色堂のバックグラウンドに、ある程度触れて欲しかったし、正式登録となった暁には大いにアピールすべきだと思うのです。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ◆平泉の黄金の行方 … どこかに埋蔵されているというのはほんとうか? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
では、平泉の金に関して驚嘆に値し、かつ信頼できるデータを1つ示しておきましょう。初代清衡のときと思われますが、仏教聖典のすべてである「一切経(いっさいきょう)」7000余巻を宋から輸入しました。その対価として砂金10万5000両を支払ったことが、中尊寺に残る文書に記されています。「両」はもともと重さの単位で、近世においては通貨の単位ともなり、金1両が4匁4分(16.5g)とされましたが、平安時代の末にはまだ701年の「大宝令」による度量衡が使われており、このころは金1両は10匁(37.5g)でした。10万5000両はなんと4t近くにもなる計算です。このデータだけをみても、「皆金色」あるいは「黄金文化」という言葉が現実味を帯びてくると思うのですが、いかがでしょうか。 * さて、ここからが私の専門分野の話になります。奥州藤原氏滅亡後の平泉の黄金に関するいくつかの伝説についてです。実は、すでに30年ほど前から、この一件には直接間接に関わってきました。最初は眠れる黄金の実在を信じ、場所も特定した別のトレジャー・ハンターを手伝う形でスタートしたのですが、伝えられる埋蔵量のあまりの多さに疑問を抱き、伝説の信憑性についての分析に力を注ぐようになりました。 3代約100年にわたり、藤原氏が北上川流域はじめ奥州各地の砂金採取を独占したのは史実です。また、そのころ日本の産金の大半を奥州が占めていたのも確かです。では、藤原氏がトータルでいったいどれくらいの黄金を手にしたのか? 収支はどうだったのか? 残念ながら、その全容が明らかになる史料は存在しません。 乏しいデータのほとんどは平泉から出て行った砂金の量で、前述の「宋版一切経」の代金10万5000両は非常に具体的ですが、ほかに漠然とした数字もあります。ある研究者によると、南宋時代に日本から渡った黄金の量は、年間数千両にのぼったといいます。南宋は中尊寺完成のころの1127年に興り、1279年まで約150年続きました。金はほとんどが奥州産と考えられますので、藤原氏滅亡までの63年間に毎年数千両が輸出されていたとしたら、総額は数十万両になります。 この2つのデータから推量すると、砂金の使途としてかなりの部分を占めるのが大陸との交易用だったということです。藤原氏の居館だったとみられる柳之御所跡から、中国製の高価な陶磁器類、いわゆる「唐物(からもの)」が発掘されていることからも、そのことがうかがえます。大陸と直接交易をしていたならば、藤原氏とは縁も深い津軽安藤氏の本拠、十三湊経由だったかもしれません。また、京へ運ばれた分も相当量あったでしょう。平泉は初めは都の文化の模倣から始まり、次第にそれ以上のものを目指したようです。ベースとなる文化のエッセンスを得るために、都の貴族が好む黄金は最大の威力を発揮したはずです。 あとは、数多くの建物を建てるためにどれくらいの費用がかかったかということですが、私はこれに砂金はほとんど使われていないと思います。大陸や都との交易には、黄金は現代の通貨と同じ役目を果たしたかもしれませんが、経済が未発達で物々交換に近い状況が続いていた地方では、建材を手に入れたり人を使ったりするのに、金は役に立たなかったのではないでしょうか。 かなり大ざっぱですが、以上のような背景と、中尊寺に現存する黄金製品の量の少なさから、私は伝説の通りにどこかに隠されたまま今日まで眠り続けているものがあってもおかしくないと考えています。そして、いくつかの伝説のうち、地元平泉の中尊寺の南側にある金鶏山の山頂付近に埋蔵されたという説よりも、藤原氏滅亡の際に源頼朝の手に渡り、関東の地に運ばれたという説のほうに真実味があるように思います。 頼朝はこのとき、財宝を我がものにはせず、従軍して手柄を立てた結城朝光にすべてを与えています。北関東の名族、結城家初代の朝光は、実母が頼朝の乳母だったという縁で、頼朝とは兄弟のように親しかったようです。また、結城家がムカデ退治の伝説で知られる藤原秀郷の後裔で、奥州藤原氏と同系統ということもあり、頼朝は朝光に対し、「平泉の財宝はおまえが受け継ぐべき」と語ったともいわれます。『吾妻鏡』によると、朝光が受け取ったものは、紺瑠璃の笏、金の沓、王幡、金の花蔓、金鶴、銀猫、瑠璃の灯炉、南廷白、金器、牛玉、犀角、象牙笛、水牛角など。ほかに「竿金」という金の延べ棒や、樽に詰まった砂金もあったと伝えられています。 さて、現在の栃木県小山市と茨城県結城市にまたがる土地を本拠とした結城家は、以後17代400年以上にわたって北関東一帯を支配します。土地が肥沃な上に気候もよく、結城紬などの郷土産業も発達し、結城百万石といわれるほどの栄華を誇りました。 ところが、17代晴朝が隠居して18代の秀康が家督を継いだころに一大危機を迎えます。同家の富裕さに目をつけた徳川家康に、手つかずのまま残っていた平泉の黄金を狙われたのです。関ヶ原の戦いの直後に、案の定、越前福井への転封を命じられると、晴朝は財宝を先祖伝来の地に埋蔵してしまいました。 家康は結城家を移した後、そこを天領とし、旧家臣の一人を捕らえて埋蔵地を聞き出しますが発見できず、関東一円に結城家の財宝の探索を禁止するお触れを出します。その禁を破ったのは8代将軍吉宗で、大岡忠相に命じて晴朝の隠居所だったといわれる城跡を発掘しますが、掘った穴が崩れて犠牲者を出す始末。幕末近くにもう一度幕府の手で探索が行われましたが、いずれも失敗に終わっています。 以後、明治、大正、昭和、そして平成の今日まで、さまざまな人たちがそれぞれの推理に基づいて発掘を行ってきましたが、誰ひとり成功した人はいません。ところが、最近、結城市内の晴朝ゆかりの寺の山門に彫りつけられた3首の和歌の謎解きに成功したという人物が現れました。私はその人に協力して、同じ山門に彫られたさまざまな絵が示すものを分析して、ある場所にたどり着きました。目下、次のステップに進むべきかどうか、検討しているところです。 |
| |