昭和12年2月5日の紙面を飾った「宝島」の記事。上は東京日日(現毎日)新聞、右は読売新聞。
 さて、宝島にキッドの宝が隠されているのではないかといううわさが日本国内に広まり、宝探しが始まったのは、さほど前のことではありません。
 戦前の昭和12年(1937)2月4日のこと、「日本・東京・日本領事館」というへんな宛名書きをした手紙が、外務省に舞い込みました。差出人の名はなく「米国探偵家秘密情報員より」とだけあり、アメリカ・コネティカット州サウシントン局の消印がありました。内容は、
「海賊キャプテン・キッドが1700年ごろに描き残した地図は、日本の南西諸島のどこかの島と思われる。ここには、1億ドル以上の金貨・宝石類が隠されているので、日本政府で探されたらいかが。もし成功したら応分の謝礼をいただく」
 というもの。そして、前年秋発行の「MODERN MECHANIX」という雑誌に掲載された島の地図の複写が入っていたのです。
 外務省の役人は取り合いませんでしたが、新聞記者がかぎつけ、翌日の各紙がこれを大々的に報道しました。新聞には、「宝島」という見出しはあるものの、それがトカラ列島の宝島であるとは書かれていません。誰かが宝島に似ていることに気がつき、うわさが次第に広まったのではないかと思われます。
 これが1つのきっかけでしたが、時代も時代だったし、一見荒唐無稽なその新聞記事だけを頼りに、遠路はるばる宝探しに行ってみようなんて考える人は、ほとんどいなかったのではないでしょうか。ただ、島には昭和12、3年ごろ、外国人がやってきたという話が伝えられています。島民にはまったく言葉がわからず、目的などいっさい不明だったそうです。また、終戦の翌年に沖縄からヘリコプターでアメリカ人がやって来たこともあるそうです。このときは通訳がいて、はっきりと海賊キッドの宝探しだということがわかったものの、手がかりもなく、たった2日であきらめて帰って行ったということです。
畠山清行氏著の『日本の埋蔵金』(上・下)と『新・日本の埋蔵金』
 私がみるところ、日本人が宝探しを目的としてさかんに島を訪ねるようになったのは、昭和48年以降のことです。というのは、昭和初期から日本各地の財宝伝説をつぶさに調査・研究してきた畠山清行氏(故人)が、その集大成というべき『日本の埋蔵金』(上・下)を著したのが、昭和48年のことだからです。それ以前にも、氏の著書としては昭和36年に出た『ルポルタージュ・埋蔵金物語』(全2巻)や、昭和43年刊の『足もとにあるかもしれない宝の話』がありますが、あまり広く読まれることはありませんでした。『日本の埋蔵金』は内容が詳細でボリュームもあり、以後、埋蔵金マニアにとってはバイブルのような書となりました。またこれを参考にして、雑誌に宝島のキッド伝説に関する記事も数多く出るようになり、大学の探検部や個人のトレジャー・ハンターが島を訪れる機会も多くなったのです。
 ただ、島に残る言い伝えや、昭和12年に新聞に掲載された記事の間接的な情報だけでは、探索者にとってけっして十分とはいえません。したがって、島内に数カ所ある鍾乳洞だけが注目され、日本の古銭が見つかったくらいで、これといった成果はありませんでした。
 なお、畠山氏の本には、昭和12年当時、新潟県三条市の小学校教員だった竹田信和と、教え子の根岸そで子、その夫でアメリカ人のロバート・ホワイトという人物が登場します。竹田のもとには先祖から伝えられた宝島の地図と外国金貨数十枚があり、新聞記事に驚いて探索を計画してはみたものの、いろいろな事情から実行できず、絵図の複写を手伝わせたそで子が、戦後結婚した相手のロバートに秘密を打ち明け、それを手がかりにロバートが占領下の宝島に行って財宝を見つけたことになっています。畠山氏に確かめる機会はとうとうありませんでしたので、この話が事実かどうかは何ともいえません。終戦の翌年にアメリカ人がやって来たという話と一致しないこともありませんが、何かが見つかったならば、その痕跡やうわさ話が残りそうですが、そういうものはありません。

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