| 副校長のコーナー |
| 土屋 康子 |
| 「 心を鍛える場 」 (学校だより10月号より) | ||
| 好天に恵まれた今年の運動会は、皆様の熱い声援の中、大きな怪我もなく、大成功に終わりました。運動会は、たくさんの皆様方の陰の力によって支えられています。保護者の皆様には、衣装の準備や健康管理などご協力いただきました。PTA役員や各部の皆様をはじめ、地域の方々からも力強い応援をいただきました。心より感謝申し上げます。今後、毎年改善を重ね、よりよい運営を目指していきたいと思いますので、アンケートのご協力をどうぞよろしくお願いいたします。有り難うございました。 子供たちが一生懸命走る姿は清々しく実にいいものです。その姿に思わず胸を熱くする方も多いことでしょう。運動会は子供たちから元気や感動をもらう大きな学校行事のひとつです。 保護者の皆様も、小学校時代の運動会ではたくさんのエピソードがあり、思い出に花が咲く時は、いつもその話題がのぼるのではないでしょうか。いつの時代になっても言葉にはならない郷愁と愛着を感じさせる運動会の魅力は、こんなところにあるのかも知れません。 さて、近年の運動会では、勝ち負けをはっきりつけない競技や個人の力の差がはっきりとでないような配慮が見られる時があります。負けた子供の気持ちを考えると、とてもかわいそうというのが、その主な理由だと思います。「用意!ドン!」と一斉にスタートして、みんなで一緒に手をつないでゴールする・・・。全く無いとは言い難い話です。 運動会は、日頃の体育学習の発表の場であるとともに、スポーツ的要素がたくさん含まれています。ですから、力と力がぶつかりあって勝ち負けを競うこともあるわけです。この勝負がはっきりとつくところに、運動会の醍醐味もあると思います。しかし、個人種目での負けは、特に「かわいそう」という意見を耳にします。果たして、そうでしょうか。 短距離走でたとえ順位がよくなかったとしても、その子供の全てがかわいそうと否定されるものではありません。その子供のもっている力のほんの一部分の面でしかありません。 また、反対に一番でゴールしたとしても、決してその子供の全てが良いと認められるわけでもないのは明らかです。走ることにおいて、他の子供たちより能力が高いということです。 一人一人の子供たちがもつ力は多様で多彩です。個のもついいところに眼を向け、生かして自信をもたせることが大切です。 これから子供たちが巣立っていく社会は厳しいもので、現実に競争のある社会です。たくましく自分の生きる道を粘り強く切り拓いていくバイタリティーがなくては生活することは難しいです。負けは負けとして受け止め、悔しい気持ちを克服するような体験こそが、今の子供たちに必要なのです。また、勝者は敗者を思いやるやさしさが大事なのです。このような実体験の積み重ねによってこそ、たくましさとやさしさを兼ね備えた子供が育っていくのではないかと考えます。 ある本に「柔道、剣道、相撲など、『道』がつく日本のスポーツの中に、外国で見られるガッツポーズのような動作がないのは、正しく勝者が敗者の心情を思いやるからである。」とありました。 まさしく運動会は、身体とともに「心を鍛える場」であると、思います。 さて、14日から後期が始まります。後期にも様々な学校行事が予定されています。どの行事も活動も、子供たちにとって「心を鍛える場」にしていきたいと、考えています。 |
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| 生命を大切にする心 (学校だより7月号より) | ||
| 子供たちを取り巻く環境に、これほどまでに様々な課題をはらんだ時代があったでしょうか。「今、子供たちに、はぐくみたいものは何ですか?」と問われたならば、私は第一に「命を大切にする心」と答えたいと思います。 人は、祖先より代々一度限りの、かけがえのない「命」を受け継いでいます。そして、その「命」と「命」が支え合い、ともに生き続けています。しかし、子供たちを取り巻く社会には、ゲームや映像の中に、簡単に命が失われたり復活したりする内容のものがあり、ゲームのような捉え方で命を捉える子も少なくありません。このような時代だからこそ、命の大切さについて考えることは意義あることと考えます。 そこで今年度の道徳授業地区公開講座では、「生命尊重」をテーマに掲げ、全学級で「命を大切にする心」について、授業を公開させていただきました。今回の道徳授業地区公開講座を、改めて、親子で「命」について見つめ合い、話し合うきっかけにしていただけましたなら、幸いです。 私自身、「命」のかけがえのなさと「生きる」意味を、将来に渡って子供たちに伝えていこう、伝えていかなくてはいけないと、決心した日がありました。今から15年前のことです。 担任していた3年1組にM君という可愛い男の子がいました。初めて会ったそのときに、M君が病気であることは一目で分かりました。手足は、小枝のように細く、顔色は土け色でした。そして何より、頭には髪の毛が、1本もありませんでした。しかし「友達と遊びたい。」「学校へ行きたい。」という一念から、M君は苦い薬も、痛い注射も我慢して、頑張りました。つらい治療にも耐えました。入退院を繰り返す中で、久しぶりにM君が登校できる日は、クラスのみんなが大喜びで彼を迎え入れ、大はしゃぎで遊ぶ姿がありました。 平成5年8月1日は、M君の誕生日です。朝から、太陽がぎらぎら輝いていて、ひまわりの花が青空に向かって、とてもきれいに咲いていました。M君は9歳になりました。そしてその日、M君は、亡くなりました。 小さな、本当に小さな、棺でした。その内側から、「みんなと遊びたい。」「学校へ行きたい。」「もっともっと、もっと生きたい。」といった叫び声が聞こえてくるようでした。やり場の無い憤りを感じました。無力な自分を恥じました。自分にできることは何だろうと考えました。そして、私にできることは、子供たちに伝えていくことだと思いました。 M君が、生き続けることを、どれほど願い、どれほど頑張ったかを。 M君が亡くなり、誰もがどんなに悲しく辛い思いをしているかを。 生きたくても生きられなかったM君が、命をかけて教えてくれた「例え、どんなに悲しいことや、苦しいことが起きたとしても、命さえあれば、必ず前に進んでいける」ということを。 「これから先ずっと伝えていこう、伝えなければならない。」と、決心しました。それが私の使命だと感じました。 だからこそ、子供たちには、かけがえのない存在である自分に気付かせ、生きている喜びを実感させ、力一杯生き抜く意志をもたせたいと、願ってやみません。 |
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| 躾(しつけ) (学校だより5月号より) | ||
| 漢字源(学研)によると,『躾(しつけ)』とは,『身についた礼儀作法。みだしなみ。』とあります。また,『躾』は,「会意文字。『身+美』の日本製の漢字。からだを美しく飾ることから,しつけの意をあらわす。」とありました。 「からだを美しく飾る」とは,どういう意味なのでしょうか? 決して,きれいな装飾品やブランド品などで身を飾り立てるという意味でないことは皆さんお分かりのことと思います。 「身」を「からだの動き」と考えたらどうでしょう。つまり,「身のこなしが美しい」という解釈はどうでしょうか。 したがって,同じ礼儀作法にしても「身のこなしが美しい礼儀作法」を身に付けさせることが「躾ける」ということになるのだと考えます。 広尾小学校の子供たちの,様々な場面における姿から「躾」について考える機会がありました。 廊下ですれ違うときに,目を合わせて会釈をしてくれます。靴箱の中の上履きをいつもきれいに入れています。これは礼儀です。また,そこに「躾」のレベルを感じます。そしてこのような行動のひとつひとつが,気持ちよく生活を送ることにつながっているように思います。 しかし,このことは,子供たちが初めからできていたわけではないはずです。 「目上の方には,お辞儀をすることで気持ちを表そう。」「上履きを脱いだらそろえておこう。」という『約束』が初めにあり,その後を大事にした結果だと感じます。つまり,初めの約束がきちんとできていたら,それを認め・褒めてあげること,できていなかったらしっかり取り組ませることを,繰り返し行うことで,『身についた礼儀作法』として子供たちの中に『躾けられた』ものと考えます。 学校は,子供たちにとって『学びの場』です。人と人とのかかわりの中で『豊かな人間性をはぐくみ』,そしてなにより『夢をかりたて希望を育てる場』であって欲しいと願っています。 学校教育,家庭教育という違いはあるものの子供の健やかな成長を願う気持ちに変わりはありません。幸い広尾小学校には強力な地域の教育力があります。三者が同じ視点に立って,それぞれの立場で『躾』について考え,実践し,『元気あふれる広尾の子』をはぐくんでいきたいと思います。 |